1945年8月9日の長崎への原爆投下から80年の節目を迎え、雨上がりの長崎平和公園にて長崎市が主催する「被爆80周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」へ平和首長会議の一員として出席しました。
あらためて原子爆弾の犠牲となられた方々、戦争の犠牲者すべての方々の御霊の平安を祈念するとともに、心から哀悼の誠を捧げます。
式典には石破首相はじめとする国内外各級の来賓が出席されるなか、被爆者合唱、原爆死没者名簿奉安、長崎市議会議長式辞、献水・献花、原爆犠牲者に向けた黙とう、鈴木市長による長崎平和宣言、被爆者代表平和への誓い、児童合唱「クスノキ」(福山雅治さん作詞作曲)、来賓挨拶、生徒合唱「千羽鶴」と続きました。今年奉安された原爆犠牲者名簿の登載者数は広島と合わせて201,942人を数えます。
80年前の午前11時2分、米軍爆撃機B-29により落とされたプルトニウム型爆弾「ファットマン」は、長崎市浦上地区の上空約500メートルで爆発しました。
一発の核兵器は、激しい熱線と爆風、放射線を伴い長崎を焼き尽くして、爆心地から半径約1.6キロ以内の建物はほぼ全壊し、市内の約36%にあたる1万8,000戸が被害を受けました。年末までには約7万4,000人の長崎市民が尊い命を奪われました。
また、負傷した約7万5,000人の方々も原爆症による後遺症に襲われました。被爆者の方々は戦後、想像を絶する苦しみの中で生活し耐え抜いてこられました。
そしていまや被爆者の平均年齢は86歳を超え、被爆の実相を伝えられる人も極端に少なくなっております。
式典後は午後から始まった平和首長会議に出席しました。
ここでは「平和文化の振興」をテーマに、私の分科会では若者と共に平和に向けた取組みや若者の役割などについて海外含めた各都市の取組を共有し意見交換しました。若者が主体的に平和を学び続けるには何が必要か、あるいは自治体として若者とどのように協働していくべきかが議論されました。
各市が若者を巻き込んだ様々な事業を学んで刺激を受けましたが、感動したのは2人の高校生のプレゼンでした。
若い世代に伝えるためには「心がワクワクする本物の体験」や、何故そうするのかという「問いの火種」をいかに作るかが大切だ、というお話がありました。戸田市の平和事業へのヒントを与えてくれる素晴らしいお話でした。
戸田市でも、これまで様々な平和事業を実施しております。例えば8月9日には文化会館にて山田洋次監督の長崎を舞台にした名作「母と暮せば」を上映しました。二宮和也さん、吉永小百合さんが出演された作品で、多くの市民の皆様にご覧いただきました。また郷土博物館では10月まで「戸田と戦争」という企画展も実施中です。
戸田市は、1986年6月に「平和都市宣言」を行い ました。宣言には「わが国は世界唯一の核被爆国として、核兵器の恐ろしさと被爆の苦しみを深くかみしめ、全世界の人々にその廃絶を訴え続けていかなければならない。」という文言が書かれており、市として平和な未来を築き、次の世代に引き継ぐという決意を表明するものです。
私はこの宣言の意味を今一度噛み締めたいと思います。
一方で終戦から80年が過ぎても、世界では分断・対立・紛争が続き、平和の尊さと維持の難しさを痛感します。
1981年、広島を訪れたローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」と語りました。
この「責任」を未来へつなぐには、平和を単に戦争や暴力のない状態としてとらえるだけでなく、人々が尊厳をもって暮らせる社会を築く視点が必要です。
平和学の父ヨハン・ガルトゥングは、それを「消極的平和」と「積極的平和」という二つの側面で説明しました。
市長である私は、この「積極的平和」を実現するため、市民の命と暮らしを守る責務を負っています。犯罪抑止や火災予防など日常の安心確保はもちろん、地震・水害・感染症といった災害や健康危機への備え、さらには国際紛争や核兵器の脅威への対応も含まれます。
これらすべては、市民が安心して暮らせるまちを築き、次の世代へ引き継ぐための使命です。
平和首長会議の掲げる「持続可能な世界に向けた平和的変革」の理念を胸に、市民の命と暮らしの安全を守り抜き、そして子どもたちの未来の先にある核兵器廃絶と恒久平和の実現に向け、一歩ずつ力を尽くしてまいります。